ザーラ・イマーエワとは誰か その1 日本招聘まで

おじいさん、おばあさんを知らずに育った
ザーラは1961年9月、チェチェン・イングーシソビエト社会主義自治共和国のソビエツキー地区、ソビエツコエ村で生まれた。
この村は、旧来の地名をシャトイと言い、チェチェン南部山岳地帯に鋭いV字谷を作って流れるアルグン川の谷間の山村である。
彼女の両親は、いずれも1944年にカザフスタンに強制移住させられたチェチェン人で、悲惨な境遇の中で両親を失った孤児たち
だった。1957年にチェチェン人の復権が認められ、59年にシャトイへ戻って間もなく、ザーラの父母は結ばれ、彼女が生まれ
たのだ。ザーラは、子ども時代を振り返って、「私には、ものを尋ねられる、おじいさん、おばあさんが誰もいなかった。両親が
二人とも孤児だったから。」と語っている。

映画監督になりたかった
村の中学校を卒業した彼女は、モスクワの全ソ国立映画大学(VGIK)劇映画監督科に入学し、映画監督となることを夢見た。しかし
彼女は保守的な親戚一同の反対に遭遇し、説得に2年がかかった。ようやくモスクワに出た山国の少女にとって、ほとんどの入学
者が映画関係者の子弟で占められた80年代初めのVGIKは、あまりにも狭き門であった。VGIK入学は果たせなかった彼女だが、
狭き門ということではそれ以上の、モスクワ大学(MGU)ジャーナリスト学科への入学した。そして学生アルバイトに撮影所で助手
を務めることで映画制作実務を身につけた。ジャーナリズムと映画制作の習得だけが彼女のモスクワ時代ではなかった。彼女は
学生結婚し、一人息子のティムールを授かった。また、後のチェチェン社会を率いる重要人物たちと出会った。その中には、ソ連
空軍の高級将校ジョハル・ドゥダーエフ、MGU法学部の先輩、ホジ=アフメード・ヌハーエフらがいた。彼らは当時既に地下組織
「チェチェン独立委員会」をつくっていた。

独立運動の激流の中で
ザーラはMGU卒業に10年以上かかった。子育て休学の上、卒論テーマ、「チェチェン人強制移住とジャーナリズム」が、大学当局を
当惑させた。彼女が正式卒業を果たしたとき、ソ連は消滅していた。民主化の高揚の中でチェチェンの首都グローズヌイに戻った
彼女は、小さな民放テレビ局(NTV)を立ち上げる。しかし、民主化から独立に突き進む激流が、NTVを洗い流した。エリツィンの
ロシア連邦は独立を阻もうとチェチェンに介入する。大統領となったドゥダーエフは、ザーラを外務省報道官に任命する。独立派が
首都を追われると、国外に出てジャーナリスト活動を続けた。97年、マスハードフ政権が誕生し、こんどは文化省映画担当次官に任命
される。しかし灰燼に帰したチェチェンの「映画」は限りなくゼロに近かった。何も進展のない中、失望した彼女は辞任し、モスクワ
でチェチェン音楽家たちのCD出版のプロデューサーの傍ら、テレビ番組制作の企画を進めて再起を図る。99年夏、ようやく通った
企画、「チェチェンの石塔建築」を巡る旅番組の撮影準備を故郷のシャトイ村で進めていた彼女に届いたのは、バサーエフ派のダゲス
タン侵攻と、引き続くロシア軍のチェチェン侵攻のニュースだった。

難民となって
アルグン峡谷にあるシャトイ村には幹線道路は1本しかない。谷沿いに下れば平原部に出てグローズヌイに至り、谷を遡れば上流は、
大コーカサス山脈の裏側、グルジア領まで続いている。彼女は親戚に託して息子のティムールをイングーシ共和国に送り、老母の世話を
しながら村で情勢を伺い、晩秋に、避難民たちを率いてグルジアに逃れた。雪の峠越えの道は厳しく、健康を害した彼女は長く後遺症
に悩まされることとなった。グルジアでジャーナリスト活動を再開するつもりの彼女であったが、避難民を送りとどけたアゼルバイジャン
の首都バクーで、、ヤンダルビーエフ政権で第一副首相を務めた後、総合商社「コーカサス共通市場(CCM)」を開いていたMGUの先輩、
ホジ=アフメード・ヌハーエフに勧められ、CCMの広報担当となった。


離別家族の再会

ロシア軍はついに2000年前半、グローズヌイを陥落させ、また山麓部のコムソモリスコエ村を包囲して、ここでハムザト・ゲラーエフ
司令官の率いるチェチェン軍部隊を壊滅させる。この包囲戦の中で、ザーラの夫も死んだ。イングーシに逃れた息子ティムールを引き
取りにザーラは行けなかった。独立派政府官僚の経歴は、拘留される危険をはらんでいた。彼女の親友がモスクワ経由で彼をバクーへ
送ろうとした。50代のチェチェン女性と13才のティムールは、モスクワに着くとチェチェン人というそれだけの理由で、警察に拘禁
された。彼らの窮状を救ったのは、ロシア人のパイロットだという。彼は強引に二人を引き取るとイングーシ行きの便で出発地に送り
返した。ティムールが母親の元にたどり着いたのは別れてから半年後だった。シャトイに残っていた老母もバクーに来た。ザーラは
自分たちを珍しい幸運という。周りの人びとは、はるかに悲惨な離散経験をしているから。

ビデオ「子どもの物語にあらず」
2000年夏、チェチェンからの難民流出は続いていた。CCMで働くザーラは、難民の記録を残すことを思い立ち、被写体となってインタ
ビューに応じてくれる子どもたちに、せめてものお礼に渡すピロシキ(ロシア風の揚げパン)を持っては、激務の合間に難民の一時収容
施設などを回っては、記録を残していった。表現に一体感を持たせようとインタビューは必ず白い背景の前で行った。2000年秋、アゼル
バイジャンの小さな民放テレビ局の技術協力があって「子どもの物語にあらず」は、完成した。当初、彼女は意気込みと結果のギャップに
落ち込んだようだが、ロシアの人権団体が先ず、こ品に注目した。2001年3月に彼女をモスクワに招いてアンドレイ・サハロフ記念博物館・
社会センターが発表会を開催した。4月、モスクワNTVの当時のメインキャスター、エフゲニー・キセリョフは、夜の最終版ニュースで
発表会の模様を紹介し、作品のかなりの部分を放映した。だが2週間後NTVのウェブサイトから「子どもの物語にあらず」放送の事実が抹殺
された。しかし、ロシアの人権団体は、「子どもの物語にあらず」のコピー配布を続け、少なからぬ教師たちが、学校でこのビデオを見せ
ている。またチェチェン戦争集結を求めるイベント会場でしばしば、この作品が上映されている。


岡田一男(映像作家) 2003.10.19.


掲載開始:2012.12.01.
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