チェチェンへの関わり、そして3・11後の日本
青山 正(チェチェン連絡会議・市民平和基金 代表)

チェチェン連絡会議の再出発にあたり、私がチェチェン問題と出会うことになった前後の頃のことについて、今の日本の状況や今後の
チェチェン問題への取り組みとも関連してくると思いますので、紹介させていただきます。

私がチェチェンの問題に関わり始めたのは、1995年に「市民平和基金」というNGOを立ち上げて以来です。と言うよりはチェチェン
戦争を知り「市民平和基金」を設立する決断をしました。そこに至る過程について説明します。


■市民平和基金を設立するまで

私は1988年に「平和・人権・エコロジー」を柱とした月刊の市民メディア『ピースネットニュース』を創刊しました。ちなみにこの年
はチェルノブイリ原発事故後に高まった日本での最初の脱原発運動が大きなうねりを見せていて、創刊後しばらくは記事も読者も脱原発
関係が中心でした。

その後1990年にイラクによるクウェート侵攻に端を発して、日本で最初の自衛隊海外派遣を可能とする「国連平和協力法案」が国会に
上程され、私はこの法案の撤回を求めて「海外派兵に反対する市民ネットワーク」の行動を呼びかけ、全国で沸き上がった抗議により
この法案を阻止することができました。しかし、翌1991年1月17日に米軍などによるイラクへの湾岸戦争が始まります。私たちはこの
戦争に反対する行動を起こすとともに、日本政府による90億ドルの戦費支出を差し止めるため、違憲訴訟「市民平和訴訟」を呼びかけ
たりしました。

湾岸戦争はしばらくしてイラクの敗戦により終結しましたが、翌年1992年には自衛隊の海外派兵を狙って新たに「PKO協力法案」が
国会に上程され、各地の市民グループと連携を取りながら法案撤回を求めて行動を起こしました。初めての全国市民投票運動や連日の
国会前での抗議行動など様々な取り組にもかかわらず、この法案は国会で強行採決され成立を許してしまいました。

それらの経験を経て、日本で市民の立場ですでに国際協力活動をしていたJVC(日本国際ボランティアセンター)の人々と共同で何度か
の討論を行い、日本の平和運動と国際協力のNGO活動の今後に何が必要かと話し合いを続けました。その結論として、NGO側からは
単なる援助・支援ではなく、世界の平和を構築する一環としての活動という認識が必要であり、一方平和運動の側には、戦争や海外派兵に
反対するだけではなく、戦争の原因をなくし、平和を創りだすために世界の市民が協力していく必要性を確認し合いました。

その後JVCは、カンボジア問題やイラク戦争の問題でも積極的に平和の視点から活動を続けることになります。しかし平和運動の側には
その後あまり大きな変化は見られず、私も具体的な行動を起こせずにいました。

そういう中で1994年12月にロシア軍によるチェチェン侵攻が開始され、チェチェン戦争が始まりました。この時新聞に小さな記事でしたが、
「チェチェンの国境にチェチェンの女性たちが人間の鎖を作り、迫りくるロシア軍の戦車部隊を阻もうとしたが突破され、ロシア軍が
チェチェン内に侵攻し、戦争が始まった」ということが報道されていました。その記事を読んで、「国際社会としてこのような戦争を許す
べきではない」、と思いつつも私は何も行動を起こすことができませんでした。

しかし1995年3月に、日本人の僧侶とロシア兵の母親とチェチェンの女性たちが共同でモスクワからチェチェン内までの平和行進を行なった
こと、そしてその直後にチェチェンのサマシキ村でロシア兵による住民虐殺事件が起きたことを知ることとなりました。自分も含む国際社会の
無視・無関心がこの事態を招いたのだと、私は深く自らを恥じました。

当時モスクワで布教活動・平和活動をしていた日本山妙法寺の寺澤潤世さんが、その平和行進に参加していた僧侶でした。彼が日本に来て
チェチェン戦争の実態を訴えていたことから、彼と連絡を取り合い、寺澤さんとジャーナリストの林克明さんによる報告会を行いました。
このチェチェン戦争をきっかけとして、私は海外での医療支援活動を手掛けていた「アジアボランティアネットワーク(AVN)」という
NGOと協力して、市民平和基金を立ち上げました。市民平和基金の目的は、戦争の原因をなくし、平和を創るために、海外での紛争や自然
災害で苦しむ人々に市民の立場から協力していくということでした。その当時はまだ海外で国際協力活動を行うNGOは限られており、設立
されたばかりの市民平和基金でしたが、マスコミでも活動を紹介してくれたこともあり、チェチェン問題の他、各国で相次いだ震災や津波
被害の自然災害や紛争で被害を受けた地域へ医療スタッフを派遣したり、難民への救援活動などを行ってきました。

(1995年の発足以来、サハリン地震被災者救援救援募金、チェチェン難民支援募金、中国・雲南地震被災者救援募金、ルワンダ難民救援募金、
イラン地震救援募金、北朝鮮救援募金、中国・河北地震被災者救援募金、パプア・ニューギニア津波被災者救援募金、中国・洪水被災者救援
募金、コロンビア地震救援募金、ユーゴ・コソボ救援募金、トルコ地震救援募金、台湾地震救援募金、99年1月のコロンビア地震救援募金、
99年9月以降の第二次チェチェン戦争難民救援募金、2001年エルサルバドル地震救援募金などに取り組み、直接の支援及び国際的なNGOで
あるオクスファムなどを通して被災者・難民への支援を行ってきました。)

チェチェン戦争に関連しては、1996年夏にチェチェン人の女性と「ロシア兵士の母親委員会」のロシア人の女性を日本に招き、当時まだ続いて
いた第1次チェチェン戦争の実態とロシアの状況について、各地で報告会を開催しました。翌年1997年1月に行われたチェチェンの大統領選挙
には、チェチェン側からの招きにより、選挙監視のボランティア3名の派遣も行いました。


■阪神大震災を受けての新たな活動

ここでまた1995年の市民平和基金設立前後の話に戻りますが、この年は1月17日に阪神大震災が起きました。この時は多くの若者が大勢ボラン
ティアとして被災地へ入り、「ボランティア元年」と言われました。私たち『ピースネットニュース』の周辺でも救援活動に参加しようという
ことで、若いスタッフを派遣したり、現地の市民団体との連携による支援を行っていました。そしてそれらに関わった首都圏の平和運動などの
若手を中心にピースネットを事務局として、「震災被災者を支える東京連絡会」を立ち上げました。(私が事務局長となりましたが、当時の
メンバーには反貧困ネットワークの湯浅誠さんなどもいました)

その活動の目的は震災弱者となった障害者や在日外国人、そして生活再建が困難な人々への、首都東京での後方支援と政府・行政への働きかけ
でした。私は戦争で人間が殺されることは許せないのと同じように、たとえ震災という自然災害であっても、本来防災を徹底していれば死なずに
済んだはずの命も多かったはずであり、震災で失われた命も許せることではないと考えていました。しかも震災で生き延びた被災者がその後、
生活再建への絶望から自殺をしたり、一人身となって孤独死が相次いだことは、まさに平和の問題とつながることだと思いました。

その後被災地の住民の間から、生活再建のための政府による「公的支援」を求める運動が起き、「東京連絡会」もその運動を支える東京での窓口
として精力的に活動をしてきました。当時西宮市に在住の作家の小田実さんもこの運動に関わり、多くの被災者とともに共鳴する国会議員を増やし
ながら、日本で初めて市民からの提起により超党派の議員を集めて市民・議員立法として国会に法案が提出され、それが1998年に「被災者生活
再建支援法」として制定されました。これは震災などの自然災害で被災した個人への政府による初めての公的な支援制度でした。


■震災・原発問題への取り組みとチェチェン問題

私の中では、この1995年の震災での新たな活動とチェチェン戦争との出会いをきっかけとした市民平和基金の活動のスタートは、ともに命を守り、
新たな平和を創り出すために深くつながりあっていたものでした。

それだけにチェチェン問題と関わってきた菊池由希子さんのやっているダール・アズィーザが、3・11後に東北の被災地で支援活動を行ってきた
ことは、かつての私の活動ともつながる大事な活動だと思います。

最後にチェチェン問題と東北の被災地、とりわけ福島県の置かれた状況について少し触れます。

現在、私は東京を離れ長野県で農業に携わっています。東京でやっていたような形での市民運動にはなかなか関われず、チェチェン連絡会議の活動
にもあまり参加できないので、申し訳ないと思うのですが、昨年から長野での脱原発運動に少しずつ参加してきました。私の中ではチェチェンの問題
と原発事故により重大な放射能被害を受けた福島の問題とが、大きく重なりあう部分があるのではないかと感じています。

チェチェンの人々はチェチェン内に残るべきか、外に出るべきか、あるいは戻るべきかということで苦しい決断を迫られました。チェチェン戦争も
長期に渡り、今はロシアの傀儡政権の強圧的な支配の下で、一定の復興が進んでいるとは言え、チェチェンの人々が抱える苦しみはいまだに大きな
ものがあるはずです。そして今、福島の人々も同じような苦悩の中に置かれています。福島では東京電力による賠償がいまだにきちんとは進まず、
また自主的な避難や疎開に対しては行政からの支援が極めて乏しい中で、福島の人々は大きな困難の中での生活や決断を強いられています。

しかも福島では放射能汚染に対する官民一体となった「安全・安心キャンペーン」が進められ、放射能被ばくや原発問題への自由な議論や行動すら
タブー視されている現状があります。

チェチェンにおいて真の自由と生存権と人権の確立が求められているのと同様に、福島においても放射能被ばくから逃れるための避難や疎開の権利が
認められ、そして十分な補償を受けて生活の再建ができる権利の確立が求められています。私の脱原発の思いはですから福島の人々とともにあると
同時に、チェチェンの人々の思いともつながりえるものです。

だからこそチェチェンの人々の平和と人権回復の願いは、私たちにとっても他人ごとではなく、これからますます大事な問題になっていくのだと思い
ます。そういう観点からの息の長い、新たなチェチェン連帯運動が求められているのではないでしょうか



掲載開始:2012.12.01.