スリム・ヤマダーエフ殺害事件から見えてくるもの 
岡田一男(映像作家)
2009.05.02. 初出:チェチェン総合情報アネックス 2012年9月改筆

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スリム・ヤマダーエフ(左)とラムザン・カディロフ(右)alarabiya.net より。

レースカー・ラプソディーまたはドバイ・ワールドカップ競馬の陰で 

日本のマスコミでも朝日新聞が、2009年4月17日に大きくページを割いて報道したが、ロシアのマスコミでは、3月末以来、
チェチェン共和国第2の都市、グーデルメスを根拠地としてきた、軍閥、ヤマダーエフ六人兄弟の四男スリム(1973年生
まれ=スレイマン)・ヤマダーエフ予備役中佐(一説には現役大佐)、ロシア連邦英雄、ロシア陸軍参謀本部諜報局(GRU)
直轄特殊部隊「ヴォストーク(東)」前司令官の首長国連邦ドバイでの「横死」が、紙面・ウェブスペースを賑わせてきた。

ドバイ競馬場

3月28日土曜日は、ドバイで最も大規模な国際イベントの開催日であった。世界最高賞金競馬、ドバイ・ワールド・カップ
レースが、ナド・アル・シバ競馬場でにぎにぎしく行われたのだ。日本からも3頭が招かれ出走した。競馬ファンならずとも
武豊騎手とか、「ウォッカ」と言った馬名は聞いたことはあるだろう。チェチェン共和国大統領ラムザン・カディロフが、
2008年6月に数十万ドルを投じて米国から購入した持ち馬、「レースカー・ラプソディー」2005年生まれ、鹿毛の牡馬も出走
を目指していて、カディロフは配下多数をドバイに派遣していた。その関係者が、ドバイ警察からロシア市民、スレイマン・
マードフ氏(スリム・ヤマダーエフの偽名)「殺害」の容疑をかけられたのだ。

Racecar Rhapsody

ここで未だ「」つきで死を書かねばならないのは、ドバイ警察が、スリムは2009年3月28日に滞在先の高級集合住宅の地下
駐車場で銃撃され即死した殺害事件とし、殺害実行犯としてイラン国籍とタジキスタン国籍の容疑者二人を逮捕し、犯行首謀
者をチェチェン選出プーチン与党「統一ロシア」所属連邦下院議員、アダム・デリムハーノフであると断定、彼をはじめ関与
犯を国際刑事警察機構(インターポール)に訴追すると4月5日に記者会見したにもかかわらず、スリムの実弟、イサ(1975年
生まれ)ら親族が、強硬にスリムの生存と負傷加療中を主張しているためである。これは、刺客を送った敵に対し、生存を匂わ
せ、威嚇・牽制を図っているものと推測されている。いかなる理由かは不明だが、ドバイ警察は、未だスリムの死体の写真や、
行われたとする葬儀の詳細を公開していない。またロシアマスコミとチェチェン共和国カディロフ政権の大騒ぎをよそにロシア
連邦政府、国防省などは、不思議な沈黙を守っている。ちなみに国際刑事警察機構の公式サイトは、4月27日づけで、デリム
ハーノフ下院議員を含む、ロシア国籍チェチェン人容疑者7名の顔写真を、ドバイ警察から殺人容疑で逮捕状が出ているとする
国際手配書の形で公開している。

アダム・デリムハーノフとスリム・ヤマダーエフ

追補:スリム・ヤマダーエフの公式な死亡日時は、2010年8月30日(ロシア語版Wikipedia)となっている。モスクワ当局の
圧力により、カディロフ派とヤマダーエフ一族の和解が演出され、この日、何故か、「植物人間となっていたスリムの生命維持
装置が停止され」、彼の遺骸が、故郷グーデルメスに運ばれた。グローズヌイからは、ラムザン・カディーロフ首長が、腹心、
アダム・デリムハーノフと、国家ムフティー、を伴って、スリムの母親を見舞い、またカディロフへの非難を続けていたスリム
の弟、イサの、「根拠のない発言を許してほしい」という謝罪を快く受け入れ、通夜(テゼート)に参加した。カディロフと
ヤマダーエフは同じベノイ・テイプに属し、親戚同士と言われるが、母親は、カディロフの来訪を、実の息子が訪ねてきたよりも、
嬉しく思うと語ったと、ロシアのマスコミは伝えた。ロシア政府はまた、ドバイ政府にも働きかけ、アダム・デリムハーノフら
に対する、国際刑事警察機構への手配を取り消させた。従って、国際手配書は、もはや見られない。


的中した不吉な予感

生前アンナ・ポリトコフスカヤ記者が評論員を務めたモスクワの新聞、ノーヴァヤ・ガゼータ紙の2008年11月24日号は、今読み
返すと興味深い記事を載せている。「チェチェンからの特殊工作班は、自分を生かしたまま拘束するなと厳命されている - 
ロシア連邦英雄、スリム・ヤマダーエフは、連邦手配の身で、地下からノーヴァヤ・ガゼータ紙に答えた。」と題する、ヤマダー
エフへのインタビューである。そこで彼は、2006年11月18日の夕刻、モスクワ、レーニンスキー大通りの自宅間近の路上でチェ
チェン内務省部隊に射殺されたチェチェン人の元「ゴレツ(山岳民)」部隊司令官、モフラディ・バイサーロフの運命に、自らの
運命を重ね合わせた。

「ここモスクワには、チェチェンから私を拘束する目的で、12名の特殊工作班が派遣されています。しかし、彼らには、私を生か
して拘束するなと(訳注:殺せと)厳命されています。ちょうど、モフラディ・バイサーロフを抹殺したようにやろうとしているの
です。バイサーロフは、まず自分の特殊部隊を解体され、次ぎに彼自身が指名手配の身になりました。そしてレーニンスキー大通り
で、彼はチェチェン内務省特殊工作員達によって射殺されました。トドメの一発を撃ちこんだのは、現在は統一ロシア所属のチェ
チェン選出下院議員のアダム・デリムハーノフで、わざわざ自分の名が刻印されている拳銃を使用しました。このことは、衆知の
事実で、誰もが知っていますが、みんなモフラディが拘束をまぬがれようとして抵抗し、撃ち合いになったと口裏を合わせているの
です。」


モスクワの路上で射殺されたモフラディ・バイサーロフ

スリム・ヤマダーエフは、このインタビューから間もなく、モスクワから姿を消した。ドバイ警察の発表では、彼は、4ヶ月に
わたってドバイの高級集合住宅に、スレイマン・マードフの名で身を潜めていた。彼には数名のロシア国籍のボディーガードが
ついていたが、3月下旬に彼らの多くが査証更新のためドバイを離れたという。ボディーガードの交代がスムースに行かない隙を
突かれたようだ。

チェチェン共和国大統領ラムザン・カディロフが、自ら認める「最も親密な戦友であり、兄弟であり(実際には従兄弟)、自分の
右腕でもある」、アダム・デリムハーノフを指揮官とする暗殺部隊に襲われた。カディロフの右手は十分に長かった・・・スリム・
ヤマダーエフの不吉な予想は的中したのだった。ロシア連邦政府の沈黙と較べると、グローズヌイのカディロフ政権の反応は極めて
素早かった。

4月5日のドバイ警察の記者会見でデリムハーノフが名指されると、カディロフは6日、「チェチェン共和国大統領声明」を発表して、
デリムハーノフの潔白を声高に主張し、彼に対する嫌疑は、自らへの攻撃と見なし反撃すると大見得をきった。そして、グローズヌイ
政権の息のかかった省庁、団体、報道機関を総動員してデリムハーノフ擁護の声明や集会を組織した。チェチェン共和国人権オンブズマン、
ヌルディ・ヌハジーエフ全権代表をして、ヤマダーエフ兄弟とヴォストーク部隊にまつわる人権侵害、拷問、被疑者虐待、略奪、身代金
取り立てなどなど、あらゆる罪状を並べ立てさせたうえ、父親のアフマド=ハジ・カディロフ(1957-2004)「チェチェン共和国初代
大統領」の2004年5月9日の暗殺は、スリム・ヤマダーエフ一味によって仕組まれた可能性が濃厚となったと突然言い立てた。この爆殺
事件は独立派軍事部門の実質的な責任者(軍事アミル)だったシャミル・バサーエフが自ら、責任は自分にあるとし、具体的な手口など
も饒舌に語った事件である。カディロフも、これまでヤマダーエフ兄弟の関与など一言も語ったことは無かった。

 チェチェン共和国では、1994年のチェチェン戦争開始以来、ロシア占領軍により、また裏ではロシア特務機関とも気脈を通じていた
一部の独立派内の「過激派」を装った犯罪集団によって、夥しい数の普通の住民が命を失ったり、負傷したり、また身代金目当ての不当
連行の犠牲ともなった。しかし、ロシア側に身を売っても、あたかもコンビニの食品が、賞味期限が切れるとあっさりと廃棄処分になる
ような抹殺の例があまりにも多いことに気がつくだろう。スリム・ヤマダーエフの殺害事件も、その一環なのである。また、ロシアの
肥大化したシロビキ(軍治安)体制というものが、必ずしも一枚岩の強固なものではないという事実も、そこから浮かび上がってくる。
ロシアの最高指導者はスターリン時代以来、さまざまな特務機関を並列させ、競わせることによって支配を固めてきた。その伝統は、
共産党が往年の力を失い、特務機関の支配者が最高権力を獲得したプーチン時代になって、より鮮明になった。対立やいがみ合いの度合い
もまさに、マフィア映画の血を血で洗うような構図となってきたのである。ロシアのプーチン体制自体がそういう体質を濃厚に持っている
が、最も凝縮した形で現れているのが、チェチェンでの権力闘争なのである。



傀儡初代大統領、アフマド=ハジ・カディロフとその死

 アフマド=ハジ・カディロフ(左)と息子ラムザン

2004年5月8日には、プーチンロシア連邦大統領(当時)の肝いりで、前年2003年10月5日に行われた限りなく灰色で、不透明な選挙を
通じてチェチェン共和国の「初代」大統領に就任していたアフマド=ハジ・カディロフが、グローズヌイのディナモ国立競技場での
「対独戦勝記念日」式典の貴賓席を爆破され、チェチェン議会議長とともに殺害されている。彼の死が、バサーエフ派の手によるもの
と信じている者は、今やチェチェン国外にいて、「カフカス・センター」など、ワハビスト系プロパガンダ・サイトの記事を鵜呑みに
する人々だけのものになっている。確かに表面上は都合良い「事実」としてロシアの公式見解ともされているが、チェチェン共和国内の
民衆は、ロシア占領軍内部の軋轢の中で、アフマド=ハジ・カディロフは殺されたと信じている。ウラディーミル・プーチンは、ロシア
連邦大統領としては、かなり一貫して、ロシア・チェチェン戦争のチェチェン化の推進者であった。しかし、それではチェチェン戦争
からの利益があまり得られなくなる者が、ロシアの軍・治安(シロビキ)体制の中には、数多くいた。スリム・ヤマダーエフの弟、イサは、
ラムザン・カディロフが、突然に父親に対するヤマダーエフ一族の殺害関与を言い出したことについて、「これは異な事、ラムザン・
カディロフは、周囲の者には、つねづね父親の死は、実はロシア側にやられたのだと、語ってきているではないか?」と、反撃の内情
暴露を行っている。
 カディロフ爆殺現場
 
 拡大画像

 アブドル=ハミド・カディロフ(高名な導師だったラムザンの祖父) 

ここで、カディロフ親子に何故、プーチンが目をつけたのかを考えておこう。カディロフというその姓は、カディル(アラビア語では
「有能な」を意味する良くある男子の名)という11世紀のイスラーム聖職者の名からきている。さきごろ高文研から出版されたチェ
チェンの道徳律、ウェズデンゲルに関する作家イサ・アフマードフの著書「チェチェン民族学序説―その倫理、規範、文化、宗教=
ウェズデンゲル」には、チェチェンの伝統的なイスラーム信仰についても触れられ、スーフィズム諸教団について言及している。そこで
興味深いのは、主要教団として、カディーリー教団とナクシュバンディ教団を挙げていることである。これまでチェチェンの主要教団は、
しばしば「ハジムリートとナクシュバンディート」とされてきた。ハジムリートという通称は、カディーリーの教えをトルコからチェ
チェンにもたらした19世紀のクンタハジの名から来ている。歴史的にもカディーリー教団という呼び名は、中央アジアにも存在するので
奇異ということは無いのだが、カディロフ政権下のチェチェンでは、チェチェン独特の、しかも多数派を占めるハジムリートの同意語
として、敢えてカディーリーが使われていることが伺われる。クレムリン当局は、チェチェン伝統イスラームの中心であるスーフィー
信仰の多数派である、「カディーリー教団」の中枢を担う一族、カディロフを自分たちの傀儡とすることにより、チェチェンの信仰上の
権威をも獲得しようともくろんだのだ。


 グローズヌイ 「チェチェンの心」大聖堂

現在のロシアの政治体制は、ロシア正教会をはじめ、各地のイスラーム教会から幾つかの民族共和国の(チベット)仏教寺院やシベリア
先住民の間で権威を持つシャマンに至るまで、ほとんど全ての宗教を実質的なFSB支配体制の中に組み込もうとしている。グローズヌイ
政権の中でも、宗教政策はきわめて重視されており、ドゥダーエフ政権時代の大統領庁舎跡地における、ヨーロッパ最大のイスラーム
大聖堂「チェチェンの心」モスクの建立などに現れている。プーチンは、そういうアフマド=ハジ・カディロフに目をつけ、その暗殺後は、
その息子の登用にこだわった。

プーチン大統領は、ラムザンを直ちに呼んだ。

モスクワに暗殺の第一報が入るとプーチンは、ラムザン・カディロフを呼びつけた。服装にはかなりラフな国柄であるロシアだが、国家
元首である大統領の前に、寝間着も同様のトレーナー姿は通常ではあり得ない。モスクワの病院に入院中のラムザンは、病室から急遽
保護者プーチンの元へ駆けつけ、父親の死を知らされ、いろいろな意味で因果を含められた。だからこそ、ラムザン・カディロフは言う。
「現在のチェチェン、今の自分があるのは、全て、ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ(プーチン)のお陰だ。」と。 

その2 に続く