チェチェンへの旅 2008年秋

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チェチェン民族再生記念碑 日本人は遺骨や墓を非常に大切にするが、チェチェン人もまた、非常にこだわる。
1944年2月23日にチェチェン人、イングーシ人が中央アジア、カザフスタン、シベリアに民族丸ごと追放されると、
墓が荒らされるようになった。墓石を石材として利用する暴挙をソ連当局は平気で行った。チェチェン民族再生
記念碑は墓地から持ち去られ、破壊を受けて、もとの墓地にもどすことができなかった、悲しい過去をもった
墓石を丹念に集めてつくった記念碑である。この記念碑は、グローズヌイ市中心部にありながら、2度の激戦
で奇跡的に大きな破壊を免れた。ところが、2008年初め(2007年末かもしれない)にカディロフ政権は、この
記念碑を撤去し、あろうことか、一般市民の立ち入れないハンカラ基地に移設すると言う計画をたてた。これには
大きな反対が、チェチェン国内でも起こった。その結果として、移設計画は断念された。



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グローズヌイ市の中心部から戦災による廃墟は一掃されているが、市の南西部に広がる工場地帯は、実は破壊を
受けたままなのだ。主たる産業が無いと言うことは、チェチェンの高い失業率とも結びついている。あるロシア連邦
内務省軍の高官は、2008年春に、「赤い星」紙に寄稿して、高い失業率と低賃金が、一定の数の若者を森に向かわ
せているのも無理は無いと、率直に指摘した。2009年春には、チェチェンは対テロ作戦指定区域から外されたが、
その夏、女性人権活動家が相次いで、無残に殺害されるなど、事態はかえって悪化している。

2008年には成功を収めた、オペレーション・スマイルの口唇口蓋裂児童への無償手術ミッションも、関係者の間で
確認された継続計画も、2009年には米国における景気後退から実施が見送られ、ロシア地域担当者がロシア人
女性に交代したあと、ミッション実施計画そのものが変更され、チェチェンでのミッション実施は宙に浮いてしまった。
米国に戻ったバイエフ医師は、医療支援体制の再構築を迫られた。



掲載開始: 2011.02.28.
最終更新: 2012.07.25.

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