チェチニア

 1994-96年の第一次チェチェン戦争までは、チェチェン人とロシア人の間柄は良好で、73万5千人のチェチェン人と20万人の
ロシア人、10万人のイングーシ人、ユダヤ人その他様々な少数民族が暮らしていた。

 戦争はチェチェンの民族分布を著しく変えてしまった。多くのロシア人はロシアへ去っていった。また数万のチェチェン人が住処を
失い、祖国を捨てざるを得ない状況になって近隣諸共和国に移住していった。

 その戦争の終結後には、共和国は経済危機にあえぎ、毎日の暮らしにもことかいた人々は、明日への希望を失っていった。政府は
権力機構と国家運営を確立しようと努力をした。アスラン・マスハドフが大統領が選出された後、政敵であったシャミリ・バサエフと
モフラディ・ウドゥゴフを自らの政権に招き入れ、健全な共和国内の政治的基礎を固めようとしたことは、重要であった。

 しかし、全ての勢力が武装を固めている中で、治安組織が市民の安全を保障することは不可能だった。近隣の諸共和国からやって
きた人々が身代金目当ての誘拐の対象とされたり、武装集団が近隣の共和国に繰り出して不法な石油取引に走っ たりして、様々な
手段で私服を肥やそうとした。このことが周辺民族のチェチェン人に対する印象を悪化させた。

 チェチェン共和国の北部はスタブロポリ地方と境を接している。国境地帯にはコサックが居住している。チェチェン人とコサックの
間柄は冷たいものだが、その間柄が戦争を誘発するようなものではない。しかしながら、国境地帯には緊張も観察されるので、武装
衝突の可能性も除外しきれない。他方、ダゲスタン領内に居住するチェチェン人、チェチェンとの国境にあるハサブユルトの町の
チェチェン人などは、チェチェンへの編入を望んでいる。このことは、ダゲスタンとの緊張関係を引き起こしている。 また、オセチアと
イングシェチアの関係にも注意している必要がある。というのも、もし武力衝突が両者間に起きれば、チェチェン人は必ずイングーシ人の
側に立とうとするからである。



訳注:
アスラン・マスハードフ() もともとソ連軍の砲兵将校だったマスハードフは、独立を宣言したドゥダーエフ大統領のもとで参謀長を
務め、第一次チェチェン戦争(1994-96年)を勝利に導き、つづくチェチェンで実施された唯一の民主的な選挙で大統領に選出された。


参考リンク:
チェチェン総合情報




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